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昭和レトロ商品博物館
所在地: 〒198-0084 東京都青梅市住江町65
- アクセス:
JR青梅線「青梅駅」から「昭和レトロ商品博物館」まで 徒歩3分
- 投稿ユーザーからの口コミ
- 青梅駅から歩いて5分くらいのところにある、昭和レトロ商品博物館です。昔懐かしい昭和レトロな商品が展示してあります。昔よく見た看板などもあり、とても楽しめます。オススメです。
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- 投稿ユーザーからの口コミ
- 東京都青梅市長渕にある「鹿島玉川神社」は、JR青梅線東青梅駅下車、徒歩25分、またはJR青梅線河辺駅下車、河辺駅南口バス停より西東京バス小05系統「小作駅西口行き」に乗車(5分)玉川神社前で下車、徒歩すぐのところにあります。 境内に巨大な神石あり、このためここを清地として、承平のころ、源経基が常陸の鹿島神社を勧請したといわれ、もと、鹿島社とか、鹿島大明神と称していました。玉川明神は、明暦のころ、玉川上水の清浄を祈願したのがはじめといわれているそうです。 鹿島玉川神社は、武蔵介源経基が承平年間(931-937)に常陸国鹿島神宮を勧請して創建、長淵村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には徳川家光より社領2石8斗の御朱印状を拝領、承応2年(1653)玉川上水開削に際して玉川大明神を祀ったといわれています。 鹿島玉川神社本殿は、かつては鹿島社と呼ばれ、承平年間(931―938)の創建と伝えられていますが、建築様式などから、実際は元和6年(1620)に建てられたと推察されているそうです。のち元禄2年(1689)に修理されましたが、建築当初の形式を大きく変えるものではなく、旧状がよく保たれています。 社殿は、石積基壇上の礎石に土台を置き、丸柱を立て、床は浜床と五級木階で高く組み、三方に高欄付の縁を廻します。内陣は、正面に開戸がつく他は板壁で囲われた閉鎖的な空間です。屋根の目板打の流し板葺の形式が特徴的で、都内でも数少ない作例の一つとなっているそうです。 近世初頭における神社本殿の建築様式を知る上で貴重な建物となっております。 鹿島玉川神社敷地内には、お子様たちも遊べるよう公園も備えられているため、歴史ある建物を見たあとにご家族皆様でちょっと運動を楽しんでから帰られるのも良いのではないでしょうか。 是非、お近くに来た際は「鹿島玉川神社」のことを思い出していただき、ちょっと足を運んでみて下さい。
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- 投稿ユーザーからの口コミ
- 青梅市千ケ瀬町にある「千ヶ瀬神社」は、JR青梅線「東青梅駅」南口下車、徒歩約10分くらいのところにあります。 千ヶ瀬神社は、古くは大社権現、江戸時代には稲荷社と称していたそうです。千ヶ瀬村の鎮守で、社家の先祖・出雲太郎某が故郷・出雲の杵築大社(出雲大社)の上を勧請し、出雲神社と称したことに始まると伝えられているそうです。明治7年(1874)村内の神明大神宮(神明社)を合祀し、明治16年(1883)千ヶ瀬神社と改称したそうです。 創建年代は不詳ですが、社家・高野氏の家伝によれば、今から一千年ほど前、先祖の出雲太郎某によって創建されたと言われています。出雲太郎は出雲国杵築大社(現在の出雲大社)の社人の次男であったが、故あって東国に下ったそうです。当地に住み着いて杵築大社の神を勧請し、出雲神社と称したのが当社の起こりといわれておます。 明治元年(1868)閏4月13日、有栖川宮へ神明・稲荷両社の名で道中安全祈祷の玉串を献上し、明治3年(1870)稲荷神社と改称、明治6年(1873)村社に列格。明治7年(1874)御伊勢山(『青梅市史』では御伊勢林)にあった神明大神宮(神明社)を境内に遷座し、明治16年(1883)両社を合わせて千ヶ瀬神社と称するようになったといわれています(※千ヶ瀬神社でいただいた由緒書に従う。『青梅市史』等では明治15年9月となっている)。 大正15年(1926)社殿を再建したといわれております。 また千ヶ瀬神社には、社殿の東西に出雲太郎が植えたと伝えられる御神木の椎の木があり、それぞれ朝日の御蔭、夕日の御蔭と呼ばれております。残念ながら夕日の御蔭は文明12年(1480)大風で折れ、枯れてしまったそうです。現在のものはその後に植えられたものだそうです。朝日の御蔭は現在も青々と茂り、昭和32年(1857)青梅市の天然記念物に指定されております。 また中には御朱印を集められている方もいるかと思いますが、「千ヶ瀬神社」でも頂く事ができます。御朱印は宮司様宅にて拝受できるそうです。(※社務所に案内図あり) 皆様も是非お近くに来た際は、心安らぐ「千ヶ瀬神社」へ一度立ち寄ってみてください。
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- 投稿ユーザーからの口コミ
- 青梅市千ケ瀬町にある「千ヶ瀬神社」は、JR青梅線「東青梅駅」南口下車、徒歩約10分くらいのところにあります。 千ヶ瀬神社は、古くは大社権現、江戸時代には稲荷社と称していたそうです。千ヶ瀬村の鎮守で、社家の先祖・出雲太郎某が故郷・出雲の杵築大社(出雲大社)の上を勧請し、出雲神社と称したことに始まると伝えられているそうです。明治7年(1874)村内の神明大神宮(神明社)を合祀し、明治16年(1883)千ヶ瀬神社と改称したそうです。 創建年代は不詳ですが、社家・高野氏の家伝によれば、今から一千年ほど前、先祖の出雲太郎某によって創建されたと言われています。出雲太郎は出雲国杵築大社(現在の出雲大社)の社人の次男であったが、故あって東国に下ったそうです。当地に住み着いて杵築大社の神を勧請し、出雲神社と称したのが当社の起こりといわれておます。 明治元年(1868)閏4月13日、有栖川宮へ神明・稲荷両社の名で道中安全祈祷の玉串を献上し、明治3年(1870)稲荷神社と改称、明治6年(1873)村社に列格。明治7年(1874)御伊勢山(『青梅市史』では御伊勢林)にあった神明大神宮(神明社)を境内に遷座し、明治16年(1883)両社を合わせて千ヶ瀬神社と称するようになったといわれています(※千ヶ瀬神社でいただいた由緒書に従う。『青梅市史』等では明治15年9月となっている)。 大正15年(1926)社殿を再建したといわれております。 また千ヶ瀬神社には、社殿の東西に出雲太郎が植えたと伝えられる御神木の椎の木があり、それぞれ朝日の御蔭、夕日の御蔭と呼ばれております。残念ながら夕日の御蔭は文明12年(1480)大風で折れ、枯れてしまったそうです。現在のものはその後に植えられたものだそうです。朝日の御蔭は現在も青々と茂り、昭和32年(1857)青梅市の天然記念物に指定されております。 また中には御朱印を集められている方もいるかと思いますが、「千ヶ瀬神社」でも頂く事ができます。御朱印は宮司様宅にて拝受できるそうです。(※社務所に案内図あり) 皆様も是非お近くに来た際は、心安らぐ「千ヶ瀬神社」へ一度立ち寄ってみてください。
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- 東京都青梅市長渕にある「鹿島玉川神社」は、JR青梅線東青梅駅下車、徒歩25分、またはJR青梅線河辺駅下車、河辺駅南口バス停より西東京バス小05系統「小作駅西口行き」に乗車(5分)玉川神社前で下車、徒歩すぐのところにあります。 境内に巨大な神石あり、このためここを清地として、承平のころ、源経基が常陸の鹿島神社を勧請したといわれ、もと、鹿島社とか、鹿島大明神と称していました。玉川明神は、明暦のころ、玉川上水の清浄を祈願したのがはじめといわれているそうです。 鹿島玉川神社は、武蔵介源経基が承平年間(931-937)に常陸国鹿島神宮を勧請して創建、長淵村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には徳川家光より社領2石8斗の御朱印状を拝領、承応2年(1653)玉川上水開削に際して玉川大明神を祀ったといわれています。 鹿島玉川神社本殿は、かつては鹿島社と呼ばれ、承平年間(931―938)の創建と伝えられていますが、建築様式などから、実際は元和6年(1620)に建てられたと推察されているそうです。のち元禄2年(1689)に修理されましたが、建築当初の形式を大きく変えるものではなく、旧状がよく保たれています。 社殿は、石積基壇上の礎石に土台を置き、丸柱を立て、床は浜床と五級木階で高く組み、三方に高欄付の縁を廻します。内陣は、正面に開戸がつく他は板壁で囲われた閉鎖的な空間です。屋根の目板打の流し板葺の形式が特徴的で、都内でも数少ない作例の一つとなっているそうです。 近世初頭における神社本殿の建築様式を知る上で貴重な建物となっております。 鹿島玉川神社敷地内には、お子様たちも遊べるよう公園も備えられているため、歴史ある建物を見たあとにご家族皆様でちょっと運動を楽しんでから帰られるのも良いのではないでしょうか。 是非、お近くに来た際は「鹿島玉川神社」のことを思い出していただき、ちょっと足を運んでみて下さい。
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